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藝文對談ともえ:第二十六回:感じると知る を公開

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* 2016/9/10sa:これまで”感じる”ことを疎かに生きてきた自分に気づいたと語るマッサン。センセイは昨今蔓延する”知る”ことばかりへ意識が向く弊害を語りだす。知ることから転じて”知識”は”格の高い感じること”が出来るのに必要であるから、知ることそのものを否定しているわけではないと言う。ただ「感じれば自ずと知る行動に通じるから、知るよりも感じることが先だと思う。感じることには弊害はないが、知ることには弊害がある」と持論を語る。マッサンは”感じること”、自分の身を通すこと(経験する)ことでしかこの身は実感し得ないものだから、感じ、行動し、知るという流れが望ましいと自らの考えを述べる。知ることで先入観が出来て純粋に見れられない、聞こえない、感じ得ないことから、知らない効能について重要性を説く。感性と知性と悟性の調和に言及する。更に話は転がっていく。

藝文對談ともえ:第二十五回:作家の後ろ姿 を公開

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* 2016/8/30tu:自ら執筆した小説を、読者の立場として読んだ際に「こんなはずではなかった」という体験をしているというマッサンの話から始まる。それに対しセンセイは「作品というのは全て草稿だと思っている」と持論を述べる。真の作品の姿は棺を纏ってみないとわからないと語り、1つ1つの作品を論ってとやかく言うことの無意味さを語り、人間トータル、人生トータルを見て始めてそれぞれの作品の全体像が見えることを指摘。同じ表現でも歌唱のジャンルには独特な厳しさがあることをマッサンが語ると、どの仕事にもプロとして取り組む姿勢の困難さに話がおよぶ。現代の風潮でもあるプロになるのにまず学校に入るという発想について語り、表現者の後ろ姿をそれぞれが述べていく。

藝文對談ともえ:第二十四回:豊かさ を公開

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* 2016/8/20sa:ある年の夏、近所の図書館で配布されていた図書館だよりから 阿部公房「砂の女」 を読んだマッサン。内容は元より、寧ろその裏側に潜むテーマに慄き、嘗ての日本人は深かったと語ることから始まる。センセイが「作品は小説に限らず自虐的、マイナー的なものの方が深くなる」と語り、その逆は浅くなりがちだと言う。(自らは敢えてそこに挑むが)話は映画に移り変わり、現代人が悲劇的な結末を好む傾向が作品に現れていると語ったマッサンに対し、人間は重複行為を避けるものだからとセンセイは返す。マッサンは映画をはじめ技術的な完成度が極めて高い作品が増えていく中、どうしても心に残らない体験を語る。時代に応じて人は作られ、その中で作物も生まれるとセンセイが語り、豊かさとは何かに話は及んでいく。

藝文對談ともえ:第二十三回:類 種 個 を公開

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* 2016/8/10we:センセイの話に出てくる 類、種、個 とは具体的にどういう考えで、センセイはどう捉えているかトッチャンが尋ねることから始まる。センセイは芸術においては避けては通れないものであると言う。この場合の類は人類のこと、種は種族、民族をさし、個は個人のことであると語る。そこから自らの芸術私感を述べ、個は種を除いて考えることは出来ないと持論を展開。歴史的背景を踏まえ日本人の戦後歩んできた道のりの問題点を指摘。今の日本の様々な混乱が欧米から種を否定され、種を除いて生きてきた結果の産物であることを文化、芸術の面から紐解く。

藝文對談ともえ:第二十二回:観念化する社会 を公開

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* 2016/7/30sa:トッチャンが東京オリンピックに向けて政府が外国人観光客にアピールしている様々な施策に触れる。こうした動きに対してセンセイは、それそのものか構わないが一方に潜む危険性を指摘。転じて、日本社会が未熟化していることの懸念を上げる。バランス感覚を失い観念化していく日本の社会の姿。それに対しどうすればいいか三人は話し合う。

藝文對談ともえ:第二十一回:変容する日本 を公開

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* 2016/7/20we:日本社会の嗜好性の変化を感じると近所の例をマッサンが語り始める。小さなお店で小さな商いをする人が増えている一方で超大企業による大量生産品の市場支配が浮き彫りになり両極化していることを指摘。センセイは日本企業の大量生産品のセンスが昭和の時よりセンスが悪くなっていると語り、安いものを買うと人間形成の裏側で育まれるものが値段以上に損なわれる危険性を言及。そこから大量生産品により作られた食事も不味くなったことへ話題が移る。マズイにしても大量生産品の不味さと嘗ての個人食堂の不味さとは違うとセンセイ。失われてきたものを感じつつ、話題は再び人工知能、そして人へ。

藝文對談ともえ:第二十回:人工知能 を公開

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* 2016/7/10su:話題となっている人工知能についてマッサンが語り出す。ここ数年、将棋の電脳戦におけるプロ棋士への勝利を経て、2016年初頭に囲碁の世界チャンピオンに勝利。嘗ての知識人の予測を越える速度で進歩した感がある人工知能。今後どのように人や社会に影響を与えるか。こうした動きについてセンセイやトッチャンがどう考えるか問いかける。センセイは「機械は水をぶっかけたぐらいで故障するけど、人間は故障しない。人間は細胞と細菌で出来ている。この違いは大きい」、トッチャンは「人の働き方や生き方は変わるんだろうなと思う」と語る。機械が出来ることは機械がするような時代になり、人はもっと豊かな人間本来の営みに戻り、益々芸術を必要とする時代へと突入すると話は展開する。

藝文對談ともえ:第十九回:師と弟子四 を公開

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* 2016/6/30th:センセイ(野尻泰煌)の姿勢や考え方について感銘を受けた部分をトッチャン(天外黙彊)が語り出す。それは「とにかくやる」というもの。それを受けてセンセイは自らを振り返って視点を述べていく。マッサン(松里鳳煌)はそこに実作家の見方と生き様を見出す。話題は次第に音楽へと移っていき、マッサンはセンセイが多大なる影響を受け、同時に親交もあった作曲家の伊福部昭について触れる。センセイは氏の活動を通し民族を背景にして作家活動をする者とそうでないものの違いを歴史的背景を踏まえながら持論を語っていく。

藝文對談ともえ:第十四回:師と弟子二 を公開

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* 2016/5/10tu公開:二人の書の師であるセンセイこと野尻泰煌さんを迎え繰り広げる師と弟子3人によるフリートーク第二弾。トッチャンが 藝文對談ともえ をやり出して感じた意見から始まる。投げかけに対し師は「主客の均衡を得られる」という切り口を語り、マッサンがセンセイの作曲した過程の話を思い出す。師は、作曲の為に弾いていると演奏する側と聞いている側に速度のギャップがあることに気づいたと語る。「いずれは人間死んじゃうんだから、生きている間に自分の身の丈で出来ればいいなぁと思うんだよ」「比べちゃマズイな~。自分は自分なんだから」 会話は弾み、書家でありセンセイの亡き妻である野尻茹園(君江)さんにまで広がっていく。

藝文對談ともえ:第十三回:先生の手帳四 を公開

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* 2016/4/10sa公開:マッサン と トッチャン がセンセイ(野尻泰煌)のことを語るシリーズ 先生の手帳・第四回。センセイの言葉や日常の様子、アプローチの仕方を通し、現代日本に巣食う問題が感じられます。自らを「面倒くさがり」と言う氏が、なぜ双鉤填墨(そうこうでんぼく)をより緻密に学書する方法を独自に開発し、何年にも渡ってそれを行ったのか。「皆は刺身のツマばかり食べているようだけど、僕は刺し身を食べるよ」と言った真意とは。氏の視点を探ります。 ※双鉤填墨=書の複写技術。原本を下に、透ける程度の薄紙を上に重ね、墨で書いて模写する。

藝文對談ともえ:第十二回:師弟対談一 を公開

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* 2016/4/20we公開:「たまには以前みたいに二人でどうだい?」 師(センセイ)の一言から、弟子であるマッサンと二人でフリートークをすることに。”ともえ”が始まる一年と少し前より、トッチャンを交えて話すようになった。当時のようにマッサンが日常の中で湧いた疑問や気になる点、感じたことを師に問うでもなく喋り、それに関してセンセイが紐解き応えていく。四時間半におよんだ会話を39分15秒に凝縮してお届けいたします。

藝文對談ともえ:第五回・師と弟子 を公開

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* 2016/2/10we公開:書を嗜む者が3人集まれば始まるのは芸術文化座談会。第五回は 二人のセンセイこと 野尻泰煌さん をゲストに迎え、弟子であるマッサン、トッチャンと3人で語り合う 1時間12分 拡大スペシャル。弟子の視点から師の活動を語り、氏が実際にはどういう意図、視点だったのか、また、その思いの背景を踏まえ、芸術や文化について触れたいと思います。 今回は、習字教室とは違う書道教室だった氏の教室が話題に。舞台は キミエサン こと 野尻茹園さん(奥様)の教室。小学生で通っていた トッチャン が当時を思い出しつつ懐かしく語り、大人だった マッサン が裏側を語る。そして氏が実情とその思いの背景を明かしていく。  藝文對談ともえ  http://tomoe.yataiki.net/

藝文對談ともえ:第二回放送を公開

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ブログ、Youtube共に本日公開しました。 ブログ:第二回 先生の手帳 http://tomoe.yataiki.net/2015/12/25/%E6%94%BE%E9%80%81%EF%BC%9A%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%9B%9E%E3%83%BB%E5%85%88%E7%94%9F%E3%81%AE%E6%89%8B%E5%B8%B3/

第二十五回泰永書展が閉幕

今週の火曜日23日に第二十五回泰永書展が閉幕いたしました。私は事務局の方を携わらせていただいておりますので、まだ事後処理に追われている調子です。 自作に関しては、昨年の大きな課題を背負っての出展でした。今後の方向性が一部見えたような感覚があります。ご来場いただいたお客様にご感想をいただけ今後の活動の参考に活かせれば。ありがとうございました。

野尻泰煌の出展作

第二十三回の泰永書展が開催となります。 今回の代表のメインは、 今年スペインで出展し話題を読んだ自詠の隷書作です。 参考出品として中国に出展された同じく自詠の隷書作も展示。

書は人間業の結果である

書で何が表出されるのか。 野尻は、「書は魂の象徴藝術である」と言います。 氏との問答を重ねた最中で異なる言い方もしました。 「判りやすく言えば”人間業の結果”と言い換えられる」

野尻泰煌:上手くなる方法(1)

上手くなる方法(1) 「書いているという意識がないぐらい当たり前のように日々書くこと」 野尻が度々聞かれる問に、 「上手くなる方法というのはあるのですか?」というものがあるそうです。 野尻は答えます。 「書くことです」  すると、 「書いてますけど?」 とかえされ、一問答があるのですが、多くの場合、野尻は相手の理解力に委ねるため、問うた本人が理解することなく問答は終わるようです。以前私は、「明らかに相手が誤解しているのに、何故先生はそれを知りながらそのままにしておくのですか?」と聞いたことがあります。すると、「相手が理解出来ないことが明白なのに、それを説明するのは酷というものだよ」と言いました。 今になって思えば、この野尻の一言というのは非常に深く、素直な本音であり、氏の累々たる修行の果てに行き着いた答えを正直に照らしていると理解できます。それが何故多くの場合理解されないかの要因について 、野尻は「当然だろうね」と私に語ります。 曰く、「 理解出来ないということは、今現在その道程にいないということであり、ましてや通っていもいない。その上で、私の言葉を受け入れられないということは、言葉を受け入れる度量もないということ。その時点で何も語ることはない」ということのようです。 書に限らず、上手くなる手っ取り早く確実な方法は”やること”に他ならないと重ねて語ります。 書ではあれば書くこと。 そう言うと、多くの場合は先述したように 『 書いてます』という言葉が返ってくるそうです。 「沢山書くこと」と答えると、『沢山書いてます』と答える人もいます。 野尻の言う”書く”ということは、”書いているという意識があるのは書いたことにならない”という意味です。ましてや 『沢山書いてます』というのは野尻の感覚では「私は書いてません」と宣言しているようなものだそうです。野尻は私に、「好きと嫌いとか、調子がいいとか、悪いとか、頑張っているとか、頑張れないとか、努力しているとか、していないとか、書いているとか、沢山書いているとか、言っているうちは土台話にならないんだよね」と語ります。 「ただ書くんだよ。とにかくやるの。それが近道。頭が働いているうちは土台無理だな」  

第二十三回泰永書展 開催告知

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私が事務局をしている師の書道会「 泰永会 」のご案内です。 第二十三回泰永書展 会期 :12月21日( 金 )~23日( 日 )3日間 時間 :11時~18時(初日のみ12時より) 場所 :文京シビックセンター・ ギャラリーシビック展示室1B   ( Web ) 東京都文京区春日1-16-21 最寄駅 : 東京メトロ 後楽園駅/丸の内線(4a・5番出口)/南北線(5番出口)徒歩1分 都営地下鉄春日駅/三田線・大江戸線(文京シビックセンター連絡口)徒歩1分 JR総武線 水道橋駅(東口)徒歩9分 主宰 :野尻泰煌 運営 :泰永会事務局 入場料 :無料

書技をいかに高めるか

どんな分野であれ、技術がなかれば現れてくるものは如何に才能があろうと稚拙なものになるのではなかろうか。それが例え天才と呼ばれる人であろうと。 書技を高める最短の方法は、やはり臨書かなぁと改めて思う。 しかし、ここに落とし穴があった。それは師である野尻が長い年月をかけ、私に「よく見るように」、「100枚いい加減に書くより、1枚のみ正確にか書くほうが価値がある」と耳にタコが出来るほど繰り返し伝えてくれた。その意味が腹に落ちてきた。 「いい加減に沢山書くという行為は単なる腕の運動でしかない。無意味だ。たった1枚であっても見えているものが正確に書け、それを繰り返せば身になる」と。