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藝文對談ともえ

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新たな活動を開始いたしました。名づけて 藝文對談ともえ です。 [藝文對談ともえ のサイト: http://tomoe.yataiki.net ] 芸術や文化について様々な話題を取り上げ、同門の天外黙彊さんと対談していくインターネット音声放送を主軸にしたサイトです。今後、部分的に文字起こしもする予定。学者でもない二人が、一国民目線で文化や芸術の話しを展開して参ります。宜しければお付き合い下さい。 第一回放送 [月1回10日の定期放送+アルファ] 30分程度の番組

書は人間業の結果である

書で何が表出されるのか。 野尻は、「書は魂の象徴藝術である」と言います。 氏との問答を重ねた最中で異なる言い方もしました。 「判りやすく言えば”人間業の結果”と言い換えられる」

野尻泰煌:上手くなる方法(1)

上手くなる方法(1) 「書いているという意識がないぐらい当たり前のように日々書くこと」 野尻が度々聞かれる問に、 「上手くなる方法というのはあるのですか?」というものがあるそうです。 野尻は答えます。 「書くことです」  すると、 「書いてますけど?」 とかえされ、一問答があるのですが、多くの場合、野尻は相手の理解力に委ねるため、問うた本人が理解することなく問答は終わるようです。以前私は、「明らかに相手が誤解しているのに、何故先生はそれを知りながらそのままにしておくのですか?」と聞いたことがあります。すると、「相手が理解出来ないことが明白なのに、それを説明するのは酷というものだよ」と言いました。 今になって思えば、この野尻の一言というのは非常に深く、素直な本音であり、氏の累々たる修行の果てに行き着いた答えを正直に照らしていると理解できます。それが何故多くの場合理解されないかの要因について 、野尻は「当然だろうね」と私に語ります。 曰く、「 理解出来ないということは、今現在その道程にいないということであり、ましてや通っていもいない。その上で、私の言葉を受け入れられないということは、言葉を受け入れる度量もないということ。その時点で何も語ることはない」ということのようです。 書に限らず、上手くなる手っ取り早く確実な方法は”やること”に他ならないと重ねて語ります。 書ではあれば書くこと。 そう言うと、多くの場合は先述したように 『 書いてます』という言葉が返ってくるそうです。 「沢山書くこと」と答えると、『沢山書いてます』と答える人もいます。 野尻の言う”書く”ということは、”書いているという意識があるのは書いたことにならない”という意味です。ましてや 『沢山書いてます』というのは野尻の感覚では「私は書いてません」と宣言しているようなものだそうです。野尻は私に、「好きと嫌いとか、調子がいいとか、悪いとか、頑張っているとか、頑張れないとか、努力しているとか、していないとか、書いているとか、沢山書いているとか、言っているうちは土台話にならないんだよね」と語ります。 「ただ書くんだよ。とにかくやるの。それが近道。頭が働いているうちは土台無理だな」  

書技をいかに高めるか

どんな分野であれ、技術がなかれば現れてくるものは如何に才能があろうと稚拙なものになるのではなかろうか。それが例え天才と呼ばれる人であろうと。 書技を高める最短の方法は、やはり臨書かなぁと改めて思う。 しかし、ここに落とし穴があった。それは師である野尻が長い年月をかけ、私に「よく見るように」、「100枚いい加減に書くより、1枚のみ正確にか書くほうが価値がある」と耳にタコが出来るほど繰り返し伝えてくれた。その意味が腹に落ちてきた。 「いい加減に沢山書くという行為は単なる腕の運動でしかない。無意味だ。たった1枚であっても見えているものが正確に書け、それを繰り返せば身になる」と。

美観と精神

来年へ向けての作品のトライは既に始まっています。 その中で自らの美観について気づかされることは多いです。 私は集合美が好きです。 なので隷書や楷書を目が好むのですが、 これは何も書に限ったものではありません。 あらゆる事象に関しても密集しているものにある種の美を感じます。 新宿にある「うまい棒」(鳥の巣ビル)を見ると何度みても感動します。

見る好みと、書ける能力は別

私は見る分には楷書、隷書が好きです。 でも、書こうとすると肉体の奥底から「書きたくない」という塊が湧いてきます。 それを無視して書くとやはりストレスになるようで手が止まってしまいます。 野尻は、「好みと能力が一致している人は珍しい」といいます。 私は典型的な例のようで、 見る好みと、実際に持っている能力が真逆のタイプ。 「ここまで逆なのも珍しいけど、 完全に一致している人もそうはいない」と言います。 好みと能力は別ということです。 能力にないことをやるのは肉体的ストレスになり身体が拒絶するようです。 好みと違うことをやると楽しくはないものの肉体は受け入れるためストレスにはなりません。 不思議なものです。 好みと能力が努力によって寄り添うことは永遠にないように思います。 持って生まれたものですので。 人間は肉体をベースにした生きものですので、 肉体の能力にあった方向性に進みつつ、時折好みに手をつけるぐらいが良さそうです。 ただし、 「草書を習熟する書家は、 結果的に楷書も書けないと草書の大家にはなれない」と野尻は語ります。 「草書が体質に馴染むものは上達するほどに 余計に点折が曖昧になり流れてしまう。 経年と共にそれをよしとしてしまい、思い込みが出来る。 流れた草書は書にあらず。点折が出来ていてこその草書である。 それを防ぐためにも楷書はやらざるを得ない。 結果的に草書の大家は楷書の大家にもなる」  師匠から渡された課題に楷書がありました。 新たな段階に入ったようです。 楷書・・・書きたくないなぁ。(笑) 師の楷書が素晴らしすぎる。 まぁ、仕方がありませんね。 下手は下手で受け止めるしかありません。

伝統という巨人

物理や科学なども先人たちが蓄えてきた知識が技術の累積があって今が存在します。 ニュートンも、 「私がさらに遠くを見ることができたとしたら、それはたんに私が巨人の肩に乗っていたからです」 という答えをしています。ここでいう巨人の肩とは先人たちの研究成果や発見や知恵の数々でしょう。 芸術におきかえるとそれを伝統というのではないでしょうか。 巨人の肩にのらずして、自ら巨人になるには人の一生はあまりに短いです。 伝統技術を無視することは自らが過去の天才たちを遥かに越える、 「超越的天才になる!」という宣言に等しいような気がします。 漫画の世界であれば主人公がいいそうなセリフでカッコイイですが、現実にはどうでしょうか。 ありがたいことに現代では、巨人は本であったり写真であったり時として実物であったり色々な形でいつでもスタンバイしております。 後はその肩に自らのりにいくだけです。 最初は十中八九振り落とされる日々が続きます。 しかし、徐々に上手に乗れるようになるでしょう。 書も、見えないうちは、「書に技術?どこに?冗談じゃない」と思うでしょう。 今もの私の父は「毎年みにきても書はわからん!!」といいます。 師に曰く「じゃあ、絵は見ていると思う?それは勘違いだね。実際は見えていないよ。書が見えなくて、絵がみえるなんてことはない。みえている気になっているだけ」といいます。 確かにそうかもしれません。どの世界でも同じだと思います。 よく我々はプロスポーツ選手のプレイをみて、ブーブー文句を言うでしょう。私も一人で観戦しなが言ってました。 よくこういうことを仰るかたもおります。 「あのプレイのどこが凄い?俺でも出来る」 そう考えてしまうものです。 でも実際やってみて「あれ?嘘?なんで出来ない」となるでしょう。 当然なのです。 もし出来たらプロになるべきです。中には本当に出来てプロになるかたもいますので嘘とはいいません。 往々にして自分の能力を把握していないだけなのでしょう。 せっかく巨人が待機しているのであれば、大いに肩にのせてもらおうではありませんか。 とはいえ、肩にのるだけでも一苦労ですが。

書道?書パフォーマンス?

私の考えを「思想」というラベルで分別し、書いていきたいと思います。 同時に「書道」ってなんだろうという考えを「書道というカテゴリを考える」ではっておきます。 拙い知識と見識なため、至らない点も多いかと思います。 興味のない方は素通りして下さい。 昨年から書道が注目を浴びているとの話をよく言われます。 「そうだね」と言う一方で、 毎度のことながら「あれは書道なのだろうか?」と思いを馳せることしばしばです。 「ま、一緒くたに書道でいいじゃん」と言われてしまえば、 「だよねー」で済ませてしまう性格です。 もとより派手なのは好きなのと、お祭り騒ぎは好きなので、嫌いではありません。 ですが、内心は完全に区別して考えております。 「書道」は、「書」「道」であるが故に伝統とそれに伴う蓄積があると思います。 また、結果を見せるものであって、その書いている過程を見せるのが主ではないと思います。 つまり書いている経過が派手であっても、作品が残念なものでしたら意味がないと考えます。 確かにああした行為は目を引きますが、作品が上手くかける為の行為ではありません。 とすると、あれ「筆パフォーマンス」であって、書道ではないと考える方がしっくりいくように思います。 旧来からの書家からすれば言語道断なのでしょうが、私は嫌いではありません。師匠の眼光が鋭く私をいりそうです。(笑) ただ、あれを「書道」と言われると「え?」と目が点になってしまいます。 目的を決めないで旅に出れば、どこへつくか誰にもわかりません。 当然です。それがいけないと言うわけではありません。「目的を決めていない」ことを把握していることが大切だと思います。 それと同じで、「書」の道を歩むのか、「筆」パフォーマンをやりたいのか、目的地は決めておいたほうがいいように思います。繰り返しますが「決めていない」とわかった上であれば決めなくても構わないと思います。なので、筆パフォーマンスから書の道へ進むのもアリだと思います。何せ道具は基本的に一緒ですから、わりとすんなり入れると思います。 気になるのは、目的を決めずに旅をしていると、知らぬうちに目的とは違う場所についてしまうことです。それでも構わないのですが、人は往々にして「ここが目的地だ」と勝手に思い込んでしまう場合があるということです。目的...