伝統という巨人

物理や科学なども先人たちが蓄えてきた知識が技術の累積があって今が存在します。
ニュートンも、
「私がさらに遠くを見ることができたとしたら、それはたんに私が巨人の肩に乗っていたからです」
という答えをしています。ここでいう巨人の肩とは先人たちの研究成果や発見や知恵の数々でしょう。

芸術におきかえるとそれを伝統というのではないでしょうか。
巨人の肩にのらずして、自ら巨人になるには人の一生はあまりに短いです。
伝統技術を無視することは自らが過去の天才たちを遥かに越える、
「超越的天才になる!」という宣言に等しいような気がします。
漫画の世界であれば主人公がいいそうなセリフでカッコイイですが、現実にはどうでしょうか。

ありがたいことに現代では、巨人は本であったり写真であったり時として実物であったり色々な形でいつでもスタンバイしております。
後はその肩に自らのりにいくだけです。
最初は十中八九振り落とされる日々が続きます。
しかし、徐々に上手に乗れるようになるでしょう。

書も、見えないうちは、「書に技術?どこに?冗談じゃない」と思うでしょう。
今もの私の父は「毎年みにきても書はわからん!!」といいます。
師に曰く「じゃあ、絵は見ていると思う?それは勘違いだね。実際は見えていないよ。書が見えなくて、絵がみえるなんてことはない。みえている気になっているだけ」といいます。
確かにそうかもしれません。どの世界でも同じだと思います。
よく我々はプロスポーツ選手のプレイをみて、ブーブー文句を言うでしょう。私も一人で観戦しなが言ってました。
よくこういうことを仰るかたもおります。
「あのプレイのどこが凄い?俺でも出来る」
そう考えてしまうものです。
でも実際やってみて「あれ?嘘?なんで出来ない」となるでしょう。
当然なのです。
もし出来たらプロになるべきです。中には本当に出来てプロになるかたもいますので嘘とはいいません。
往々にして自分の能力を把握していないだけなのでしょう。

せっかく巨人が待機しているのであれば、大いに肩にのせてもらおうではありませんか。
とはいえ、肩にのるだけでも一苦労ですが。

コメント

このブログの人気の投稿

固まった筆の再生

空海の『書道展ナビ』サービスが終了

筆をおろす